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せつない恋の恋ヶ窪

昔は大きな宿場町だった現在の国分寺市恋ヶ窪。水の豊富な土地でもあり古来より多くの人が住み、そこからさまざまな物語が生まれた。地名に「恋」の文字が選ばれたのも、ひとつの物語だったかもしれない。

恋ケ窪


西武国分寺線の恋ヶ窪駅、「恋」の文字が付く駅は国内に4つあるそうだ。

恋ケ窪という地名は、国分寺市の中央部、西武国分寺線の恋ヶ窪駅と国分寺駅を真ん中に東側と西側にそれぞれ、東恋ヶ窪・西恋ヶ窪という町名で配置されている。「窪」が付く土地だけあり、地下を走っていた武蔵野線が地上に顔を出しさらに高架になっていたり、西国分寺駅構内で崖下にあった中央線が、東京方面に向かうと急に崖の上に出たり、地形的には甚だ忙しい場所だ。このような土地は湧水が多く、かつては遊女たちが鏡代わりに使っていたといわれる姿見の池や野川の水源などがある。そして水の出る所には、少し湿度の高さを感じる逸話が残っていることも多いようだ。 

「窪」に入ると地下を走っていた武蔵野線が地上に顔を出す。

武将、畠山重忠


畠山重忠は800年ほど前に鎌倉幕府の有力武将として活躍した人物で、清廉潔白、武士の鑑とたたえられていたそうである。現在の埼玉県深谷市畠山生まれで、源頼朝に仕えていたため鎌倉への往来が多かった。今では想像しにくいが、当時の恋ヶ窪は奥州方面から鎌倉・京都への交通の要衝で大きな宿場町だった、当然、重忠もこの地をたびたび訪れていた。そんな重忠が美人で名高い遊女夙妻(あさづま)太夫と知り合いになることは、自然な流れだったのかもしれない。

昔は大きな宿場町には必ず、遊郭があったようである。「太夫」は格の高い遊女を示すもので、後付けかも知れないが、かなりの美女だったということを言いたかったのであろう。どちらにしても、宿場を通るたびに重忠は夙妻太夫と逢瀬を繰り返し、やがて深い恋仲となっていったようだ。清廉潔白な人物と遊女の恋、つながらないような、つながるような、同じ男性として少し複雑な気持ちもする。

遊女・女夙妻大夫が入水したとされる姿見の池。

日本中を飛び回り活躍していた重忠は、遠い国での戦のためしばらくこの地に立ち寄れないこととなった。すると留守の間夙妻太夫の気を引こうとする男たちが、重忠は戦で死んだと嘘の知らせをする。それを真に受け悲観した夙妻太夫は、姿見の池へ入水し果ててしまう。

後日それを知った重忠が供養のため、無量山道成寺という堂を建立し阿弥陀如来立像を安置したと言われている。現在面影を残すものは近くの寺に、その時に植えた松の後継とされる木と、それら出来事を記した碑を残すのみとなっている。


深谷市の畠山重忠公史跡公園(関越自動車道花園ICから車で7分)にある畠山重忠像(提供:深谷市観光協会)

この話は国分寺市史などでよく見聞きする話であるが、この結末から「恋」の文字が地名として選ばれたのか少し不思議な気もする。近くに国府があったことから国府(こう)ヶ窪や、前述のような土地柄から池沼が多く、鯉ヶ窪など諸説あるようだ。有力武将と遊女のせつない悲恋から生まれた「恋」の文字が、現在まで残こったのには、やはりこの土地の湿度が関係するのかもしれない。

2016年07月28日|国分寺市

記者プロフィール

まつい のぶお
空想好き。読むこと書くこと、そして調べることも好き。

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