• よ
  •       
一覧に戻る

夜空に舞う火の花

清瀬の住宅街の一角にそびえる、高さ約9mの中里富士塚。毎年9月1日の日が暮れたころ、「火の花祭り」を見物しようと、次々と人が集まってきます。

祭りの舞台・中里富士塚


火の花祭りは、富士山の麓、山梨県の富士吉田市で行われている山じまいの「火祭り」にならったもので、起源は定かではありません。

江戸時代、富士登山が庶民の娯楽となったものの、今ほど簡単に登れるものではなかったため、身近に富士山のご利益にあやかれる場所をつくろうということで、富士山を信仰する富士講によって各地に富士山のミニチュアともいえる富士塚が作られました。富士山信仰は江戸を中心に盛んになり、当時、町の数だけ富士講がつくられた様子は「大江戸八百八講」ともいわれたほどです。実際に富士山の溶岩を用いて作られ、富士塚に登山すれば富士登山と同じご利益にあやかれるともいわれています。

その一つがこの中里富士で、丸嘉講田無組中里富士講によって、文政8(1825)年以前にはこの地に築かれ、昭和63(1988)年に現在の姿となり、富士山とこの地域の人々をつなぐ大切な場所として、現在まで大切に守られて来ました。 富士塚は23区だけでも50ほど、そのほか富士講にまつわる史跡は各地に残っているといわれますが、実際に地域の祭りの舞台や祈りの対象とされている場所はどんどん減っています。そんななか、"現役"の中里富士は地域でどのような存在なのでしょうか。祭りを通して考えてみようと足を運んでみたのです。

祭りと暮らし


清瀬の富士塚を舞台に行われる祭りでは、地域のかつての暮らしが垣間見られます。祭りの醍醐味ともいえるお焚き上げに使われる麦からは、かつては各家庭から集められていました。現在は、麦栽培が行われなくなり、祭りを執り行う富士講が栽培したものを使っています。もともと、手本にした富士吉田の火祭りでは木材を使用っていたものの、この辺りでは貴重品だったために、農家から麦からを集めたといいます。 富士塚に置かれるろうそく立ての竹は、現在でも地元農家のものです。

晩夏の夜に燃え上がる炎


麦から(大松明)の頂に火が移されていく

行衣姿の富士講の一行が富士塚の山頂で祈りを捧げ、御神酒を交わした後、108本のろうそくに火が灯ると火の花祭りが開始されます。見物客が見守る中、一行は松木に点火した火を携えて塚を下り、円錐状に積み重ねられた麦から(大松明)の頂に火を移します。講員が鳴らす鈴、祈り、そして燃え上がる炎であたりは神秘的な空気につつまれていきます。

万が一に備えてでしょうが、消防隊員の姿が見えるほど、火は上がっています。少し離れたところでも息苦しいほどの熱さで、もう少し近くで見たい思いと熱さとの葛藤が続きます。

息もできないほどの熱さなのに見入ってしまう幻想的な光

受け継がれる祭りと風習


もがく時間もそう長くは続かず、炎が弱まったかと思うと、焼けて崩れ落ちた大松明のまわりに、鍋やバケツを手にした人だかりができてきました。 みんな灰をかき集めて入れては、満足そうに帰っていきます。

何かしらのご利益があるのだろうと思っていると、後ろで「この灰を玄関の前にまくと火災除けや魔除けになるし、畑にまくと豊作になるのよ」と老夫婦が若いお母さんに説明している声が聞こえて来ました。

うっとりしているのもつかの間、一気に焼け崩れた麦から

今では富士山も自分たちで気軽に登れるようになったうえ、娯楽も増えて、富士講で何かをするというのはなかなか難しい環境にあります。そんななかで、中里地区では先代から講を引き継いで祭りを続けていることで、地元の人々にも時代を超えて富士山信仰の文化が脈々と受け継がれているようです。 来年は鍋を持って祭りに参加したいと思い、帰路につきました。

参考文献:「清瀬の民俗行事と民俗芸能」清瀬市郷土博物館(2014年3月)

2016年12月19日|清瀬市

記者プロフィール

伊藤 恵梨
三重県の神道の家系に生まれる。大学入学時に上京し、御岳山と出会う。東京の山中で御師集落が営まれていることに感動して取材・研究活動を開始。御師とともに講の文化の奥深さを知って、富士講などにも興味を寄せる。

一覧に戻る